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親友と飲んだ。やっぱり無理して会ってもらってよかった。

『読書履歴に基づくおすすめ』がようやく機能するようになってきた。元年から十年、黒船来航から八年もたってようやく出版社が電子化をするようになってきたからだ。契約の都合だったのは理解できるがあまりにも遅すぎた。おかげでわたしの本はどれもゴミに紐づけられてしまった。

本は人づてならぬ本づてに読まれるべきだ。作品や著者のつながりで読まれるべきだ。けれどもそれはすでに評価されていることが前提とならざるを得ない。価値が見出されていないものに外界とのつながりはないからだ。脱するには他者からの評価がどうしても必要になる。人づてに見出されるほかはない。

ジョニー・キャッシュは確かにそれをやったわけだけれど、言葉を読んだことも聴いたこともない読者に、どうしたら伝えることができるだろう。現状はアニメやゲームみたいじゃないから星ひとつ、みたいなことにしかならない。

「愛と慈善をつうじて幸せへ至る道について、イエスの言葉を読んだり聴いたりしたことがないやつのためにおれは黒を纏うんだよ。ああ、あんたは彼があんたやおれに、じかに話しかけてくれると思うはずさ」

「そりゃおれだってまいにち虹色の服を着て、なにもかも大丈夫だっていいたいさ。でもおれはちょっとでも闇をしょって運び去りたいんだ、世の中が明るくなるまではね。だからおれは喪服の男さ」

ドトールのブレンドがめちゃめちゃに旨いというわけではないが、インスタントコーヒーがドトールのブレンドとまったくおなじであったらめちゃめちゃに旨いといえる。

無印のインスタントコーヒー、ドトールのブレンドに似ているな……

そういえばPA-APIは二日ほど機能している。二ヶ月つづけてアフィリエイトリンク経由で購入していただいたおかげだ。

そうしたことを振り返るとわたしの買い物依存はたんなる無駄遣いともいいきれぬような気がする。どちらかといえば学習意欲や向上心にかかわりがある。今回の無駄遣いでいえば身につけるものが主で、それはずぼんの正しい穿き方や適切な裾上げを検証するためであったり、衣服の適切な選び方を学ぶためであったりする。新しいMacを買ったところで学べるものは何もない。iPad Proでいえばその気になれば学ぶことは多いはずなのだが、自分には馴染まなかった。背伸びをしすぎという気がする。音楽は幼少期に諦めた。許される家庭環境ではなかったからだ。絵は、そのことで虐待にあってやめた。取り戻す努力をするつもりだったがこの歳になってはもうむりだった。書くためには別売りのキーボードが必要だがそれはすでにMacで足りている。映画はMacかiPhoneで見る。そういえば必要に迫られているといえばMacよりむしろiPhoneだ。6Plusをいまだに使っているのだが大半のアプリのモバイル通信を切ってもバッテリが一日ぎりぎり保つかどうかだ。しかし指紋認証やイヤフォンジャックが便利なので手放したくない。とても気に入っている。

わたし自身が発達障害であるせいか、両親が精神異常者であったせいか、ふつうに知能が発達していれば幼少期に身についていたはずの感覚を、成人してから苦労して学んでいる。たとえば人間は毎日排泄するものだということを知ったのは十代後半になってからだ。わたしは乳児期の完全な記憶があるのだが、おむつを換えられるたびに「またかよ、汚えな」と厭な顔をされるのをもうしわけなく思っていたことと、幼少期に住んでいた家がとても古く、便所が暗かったのと関係があるかもしれない。この数週間で学んだのはずぼんの穿き方だ。45歳にしてようやくずぼんは腰で穿くものだと知ったのだ。これまでジーンズもスーツのトラウザーも、股上が浅かろうが深かろうが、ウエストまで引っ張り上げてベルトで締めて穿いていた。どうしてそんな穿き方をしていたのかわからないが、とにかくそのことに何も疑問を抱かなかった。仕立屋はどうしていつも裾上げにしくじるのだろう、短すぎる、と思っていた。

買い物依存の発作が出てひと月あまりのあいだに十数万の無駄遣いをしてしまったのだが、どれも日常的に使うものではある。新しいMac miniを買うのはやめた。ハードウェアは必要に迫られて渋々買うものであって買い物依存の病理にはさほど訴えない。いま使っているlate 2013のMacBook Proでも最新のOSが動作するし、そろそろ買い換えどきかなぁと思わされる程度には不便を感じる一方で、まだ使えると思える程度には不自由がない。あと一年は行けるだろうし、そのあいだに小型化された筐体の機種が出るかもしれない。新機種を褒めそやす記事ばかり目にするけれどもあれは信者向けなのだと思う。PowerPCの頃だってintelより速いとか宣伝されていたのを知っている。これまでにもっとも失敗した無駄遣いはiPad Proだ。MedibangPaint Proの更新でペンタブが動作しなくなったのでやむなく買ったのだが身分不相応だった。『ぼっちの帝国』と『ガーベッジ・コレクション』の装画に使っただけであとは宝の持ち腐れとなっている。それだけのために十万は明らかに無駄だ。いまMacを買うのはそれと同じことになる。

OSの更新でボタンが見当違いの位置になり使いづらくなった。不自然な手の動きを強いられる。たとえばメールアプリでは不要なメールを削除するために遠くまで手を伸ばさねばならない。ブラウザではタブを増やすために遠くまで手を伸ばさねばならない。これまではメール一覧からちょっと上へカーソルをずらすだけで削除できたし、タブの右へちょっとカーソルをずらすだけでタブを増やせた。窓枠の色も見づらい。たしかにメタファからいえば手前にあるものに光が当たって明るくなるのが道理なのだが実際の使い勝手にとっては選択されている窓が濃い色、背後にあるものは薄い色のほうが使いやすいのだ。

柳楽先生の連載、読まれ方が変わってきた。初回と第二回までは爆発的な殺到。第三回の後編から共有やいいねの数に見合わない閲覧数に落ちた。たぶんそこで実際のファンとそうでない読者がふるいわけられたのだろう。第四回以降は毎日のように読み返す客が訪れる。カテゴリトップも多い。つまり、つづきが期待されているのだ。

無印のインスタントコーヒーめちゃめちゃにうまいな。なにこれ。ちょっと高いんだけどその価値はある。

『GONZO』がやろうとしていることはそういう意味でまちがってはいないと思うんだよなぁ。

人付き合いの苦手な少年少女が恋愛をきっかけに他人と打ち解けていく、という話にはいま、とても需要があるみたいだ。たしかにそういう物語は読んでいて気持がいい。けれども同時に疎外感をおぼえる読者も多いはずだ。というのは思春期において「恋愛をきっかけに他人との付き合い方を学ぶ」なんてことが許されるのは生育環境に恵まれた子どもだけだからだ。逆にだからこそ理想郷としてのファンタジーが成り立つのだとは思うけれども、それはわたしが中年になって子ども時代のあれこれを自力で取り戻せたからにすぎない。いままさにその渦中にある子どもにとっては突き放された気分にしかなれないのではないか。というか、渦中にいたらそもそも漫画なんて読めないだろうけれど。

『GONZO』が素人レベルというか、中学生の文芸部レベルだという自覚はある。しかしだからといって書き上げなければ自分を肯定できない。長編小説を書きかけのまま放り出して完成させないのは、へたくそなものを書いて公開するよりもずっと恥ずかしいことだ。

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